セックスは聖か俗か、という話 その3 (2022/10/10)

セックスが聖なるものか俗なるものか、
という話、
 それは相対的なもので、
絶対的な聖や絶対的な俗というのは無い。
代々木監督のAVなんかでは、
俗が極まったところに神々しいものを
感じたりするし、
聖を強調して俗を否定するという
スタンスには、正直、胡散臭さを感じる
ところがある。
ほとんど全ての人間は
聖なる面と俗なる面を併せ持っているから、
自分は俗物だと言う人間には
何らかの聖なる部分を感じるし、
「自称聖人」ほどに怪しいものもない。
自称仙人がそれを言うな、ってか?
私は生臭仙人ですから😆
冒頭で、私とアマノジャクな人妻との会話で
私が「聖なる性」について語った時に
その人妻が「いや、性は俗よ。」と
返してきたことを書いた。
でも、もしかしたら、
私が「性など低俗なもの」と言ってたら、
彼女は「いや、聖なるものよ。」と
答えていたのかもしれない。
それは、彼女の性格の悪さではなくて、
そもそも性ってそういうもので、
この二人は未熟な禅問答をしていただけかも
しれない。
聖か俗か。
などというのは、
聖と俗が対立するものであることを
前提とした発想なのだけれど、
俗があるから聖が光り、
聖があるから俗は俗と称される、
対立するものてはなくて
互いに引き立て合う裏表である気がする。
だから、
聖か俗か、なんていうのは
最初から意味のない、
単にお利口さんぶった話なのではないか。
そういう風に分別しようとするのではなく
聖なる面も俗なる面もただ感じて楽しめば
いいのではないか。
私は一回のセックスの中でも
とんでもなく下世話な自分と
とんでもなく聖なる自分、
同時に出てくることもあり、
そんなときにセックスの醍醐味を
感じている。
西洋的価値観では
天使と悪魔は対立する概念だけど、
東洋的価値観では
地獄の鬼は神仏の化身であるとされている。
渾然一体となっているものを
わざわざ分けて話す必要もないし、
分けて話せば全くの興醒めだ。
野暮、というやつ。
知恵の木の実を食べて分別が身についたために
アダムとイヴは楽園から追放された。
聖や俗やと分別する必要なんかない。
性は、そのままで性なんだから。