聖母と御子 (2021/12/25)

日本の神社は女性器を模したもの、
とよく言われますね。
 お宮は子宮、膣は参道(産道)、
鳥居はお股、鎮守の森はヘア など。
それは日本の神社特有のことなのかと
いえば、
建築デザインの世界では、
キリスト教の大聖堂も女性器の
デザインではないか、と
小さな声で言われたりしています。
どこか忘れたけど、そういう話を
読んだことがあります。
ガウディのサグラダファミリアなんて、
モザイクをかけたくなります。
神社にせよ大聖堂にせよ、
神域が女性器をシンボリックにデザイン
している、というのは、
人間を超えた存在と人間との関係を
母と子との関係に例えて表現している
ということかもしれません。
実在の人物としてのイエスキリストが
処女から生まれた、とは考えにくいけど、
エス聖霊が神から遣わされた、
とすれば、その神と聖霊との関係を
聖母と御子に例えてシンボルとして
人の姿に表現する、ということは
あり得ますね。
そのシンボルの世界では母が処女で
あってもいいし、あの大聖堂は
聖母の女性器のシンボルか?と思うと、
聖霊と、聖堂で礼拝する人と間の関係にも
同じようなシンボルがあるかもしれない。
仏教でも法華経では
実在の人物としての釈迦と
その魂とは重なり合う別物として
語られています。
精霊の世界と肉体の世界は
重なり合うようで一致はしない。
そこで処女受胎というシンボリックな
話が生まれたのかもしれない。
それは、人間の世界も同じかと。
肉体の交わりと心の交わりは
重なるようで一致はしない。
身体を抱くことと心を抱くこともしかり。
肉体の交わりと心の交わり、
どちらが先なのか、というのは
それぞれだけど、
一致するものではないけど
重なり合うものとして増幅し合う
ものなのでしょう。
エスの生誕は聖霊の降誕と
重なり合うシンボルだとすると、
人の知覚には限界があるから、
処女受胎は
三次元界にそのシンボルを求めたもの
なのでしょうかね。