学校頭に思う (2022/2/27)

最近、ボッカチオの「デカメロン」に
ハマっている。
 ルネサンス文学なので、中世の教会の
権威的教義を風刺して実際の人間のありようを
おもしろおかしく描いていて、
何だか人間のありようって、
昔から変わってないな、と思う。
・・・
それを読んでいると、堺雅人主演の
堺雅人演じる辣腕弁護士が
有能な学校頭の若手弁護士を論破する
シーンを思い出した。
このやり取り自体、すごい文学だと思う。
「崇高な理念など、欲望の前では無力だ。
 所詮人間は欲望の生き物なのだよ。
 それを否定する生き方などできはしないし、
 その欲望こそが文明を進化させてきたんだ。
 これからも進化し続け決して後戻りはしない。」
「愚かだ・・・。」
「それが人間だ!」
「人間の純粋さを信じることです。
 醜さではなく、美しさを見ることです。
 誰しも、それを持っているから。」
「やっぱり君は救えないな。」
「僕のどこが間違っているんです?」
「間違ってないと思っているところだよ。
 君は人間は愚かだと言う。全く同感だ。
 どいつもこいつも、愚かで、醜く、卑劣だ。
 わがままで勝手でずるくて汚くて醜い
 底辺のごみくずども。
 それこそがわれわれ人間だ。」
「だから、それを導こうと。。」
「それが違うんだよ。まずそこから降りろ。
 自分も底辺の醜いごみくずの一匹である
 ことを自覚しろ。
 もし君が、皆が幸せになる世界を築きたいと
 本気で思うのなら、方法はひとつだ。
         ・・・醜さを、愛せ。」
・・・
ある程度歳を重ねると、
学校というのは、
人間や社会の実際のありようを教えて
くれるところではなく、
人間や社会はこうあるべき、という
理念を教えたがるところだったと
気付く。
その上、学校で教わることが本当なのか
について考えるきっかけを与えてくれる
社会のリアルを教わる機会がどんどんと
減っているような気もする。
世の中おかしい、とか
それは問題だ、という言葉が大好きな
人というのは、
おそらくそうして作られていくのだろう。
あるべき論と実際のありよう、
多分どちらも間違ってはいないのだけど、
とちらか一方だけを振り回すというのは、
それ自体が間違いなのかもしれない。
人間の醜さを愛せ。
この言葉は、魂にズシンと響く。