抱かれることは抱くことより難しいのかも (2022/8/21)

最近、Hiroko Oakley さんと
AV作品について談義した際に思ったこと。
・・・
 最近、私はパートナーとのセックスでは
余計なテクニックの類を使わず、
ひたすら抱き合うことに徹するようにしている
(*私のパートナーはOakleyさんじゃありませんよ)。
そうなってきた経緯は別に書くこととして、
ここでは「抱き合う」ということについて。
・・・
「抱き合う」というのは、
それぞれお互いの相手を抱くこと、という風に
捉えていたのだけれど、
お互いが「相手を抱く」と同時に
「相手に抱かれる」ことなんだな、と
感じ始めた。
どうしても固定観念として
男は抱く側、女は抱かれる側、というのが
あるようなんだけれど、
彼女に抱かれるというのも心地よいものだと
最近特に感じる。
相手に対して自分のプライドも鎧も捨てて
自分の全てを委ねて、彼女の母性に対して
幼児になったように抱かれる。
それがすごく心地よい。
その心地よさを感じた時、
自分が彼女を「抱く」時に同じような心地よさを
感じてもらうことができているのだろうか、
と振り返ってしまう。
男が女性を「抱く」といったとき、
どうしても征服欲や賞賛欲のようなものが
頭をもたげてくる。
それが男性性の「抱く」だとした場合、
そういう抱き方をされるのは絶対にイヤだと
彼女は言う。
相手の全てを受け入れて肯定して、
心をまるごと母性で包み込んで癒してしまう、
そういう抱き方を女性性の「抱く」としておくと、
相手と優劣も主従もなく、ただ抱き合って
溶け合う、というのは、
抱く側も抱かれる側もお互いに女性性が
出てくる必要があるのだろう。
優劣、主従、序列、評価を求める男性性は
一時的に封印する必要がある。
男も、女性に抱かれるときは、女性性が
前面に出なければおぼつかない。
・・・
相手に抱かれる、というのを形だけでなく
互いに溶け合うようなものにしたいとき、
自分が相手に対して持っている境界線を
取り除く必要がある。
それは、男の場合はプライドやポーズであったり
女性の場合は警戒心や羞恥心であったりする
のかもしれないけれど、
それを捨て去ることは、パンツを脱ぐことよりも
難しかったりする。
しかし、境界線を取り除かないと、
お互いに溶け合うことはない。
・・・
先日、「密教昇天の極意」という
AV作品について Hiroko Oakley さんと
コメント等で談義した際に思ったのだけれど、
母性で相手の男を完全に包み込むことと、
相手の男に自分の全てを委ねて、可愛い女として
抱かれることを同時にできるのは、
私の長年にわたるAV鑑賞歴の中でも、
その作品の主演女優、栗原早記サマしか
心当たりがない。
その中で、
彼女に抱かれて失神した男優、加藤鷹さんは
その後トップ男優として君臨していくのだけど、
それは、抱かれる側の気持ちや感覚を知ることで
抱き方が変わっていったからではないだろうか。
・・・
多くの女性を感じさせている男を見ると、
そのテクニックをマスターしたい、と思うのが
男心というもので、
商業的にそういうニーズに対応するように
「AV男優の秘技を伝授」
「全ての女性が悦ぶセックスはこうだ」
といったノリの教材が出回り、
そこではGスポットなどの刺激のしかた、
中イキのさせ方、気持ちいいタッチのしかた、
みたいなことが語られているけれども、
そういった目に見えるテクニックや手法は
表面的なものでしかなく、
本当にAV女優さんから支持を得ているAV男優は、
抱かれる側の気持ちや感覚を理解している
人たちではないだろうか。
本質はテクニックや手法ではなく、
相手を理解し尊重し共感しつつ
決して媚びないメンタルではないか
(相手に媚びる心というのは、厄介な境界線だ)。
女性にガチで抱かれてみると、そう思う。
相手に全てを委ねて、主体的に抱かれることは、
相手を抱くことよりも難しいことかもしれない。
特に男にとっては。
しかし、
真剣に抱かれてみれば、抱き方も変わる。
その時、小賢しい知恵は一切不要になりうる。